あくまでも例という大前提で書き始めますが。たとえば、少子化の話題が流れてくると、だいたいセットで「なぜこうなったのか」が始まります。あのときの政策が、あの時代の空気が、と原因をさかのぼっていく。議論としてまっとうだし、読んでいて勉強にもなる。
ただ、毎回ちょっと引っかかるところがあって。
いま目の前にある状況って、何十年ぶんかの無数の選択が積み上がった結果なんですよね。積み上がったものは、さかのぼって解体できない。原因が特定できたとしても、その原因が起きた時点には戻れない。それでも話の重心は、どうしても「戻れたはずの分岐点」のほうに寄っていく。
少子化に限らず、いまに至るまでの積み上がりそのものを、自分はある程度は不可逆なものとして受け取っておいたほうがいいと思っています。諦めるという意味ではなくて、前提を固定するということ。どこが動かせなくて、どこならまだ動かせるのか。それを分けないまま「なんとかしないと」だけが先に立つと、だいたい何も動かない。生存戦略という言い方をしてもいいけれど、要は前提がぐらぐらしたままだと、その先の戦略も戦術も組みようがない。
原因を突き止める作業と、これからを設計する作業は、たぶん別の仕事です。前者は過去に向かって進むし、後者は未来に向かって進む。向きが逆なので、同じ人が同じ時間に両方やろうとすると、どっちも中途半端になりやすい。
だから、議論するなという話ではまったくないです。むしろ何が起きたのかを解像度高く記述しておく仕事は、研究する人たちがきちんとやるべきだと思っている。そこが残らないと、次の判断材料そのものがなくなる。敬意を持って、その人たちの持ち場だと思っています。
そのうえで、自分は市井の身です。大きな話の結論が出るのを待っているあいだにも、目の前の一日は勝手に進んでいく。
じゃあ手元に何が残るのかというと、たぶん三つくらいで。日々の判断を、そのつどちゃんとすること。自分が決めたことの結果を、あとから引き受けること。それと、目の前にいる人への態度を雑にしないこと。どれも地味だし、大きな数字はこれで一ミリも動かない。
でも、自分が動かせる範囲がここしかないのも事実なんですよね。大きな話が止まって見えるからといって、手元まで止める理由にはならない。惑わされるというのは、たぶんこの手元の分を、大きな話のほうに預けてしまうことなんだと思う。
過去は変えられないけれど、明日の自分の振る舞いは変えられる。当たり前すぎる話ですが、この当たり前を保ち続けるのが、実際にやってみるとけっこう難しい。だから自分は、そこだけは手放さずにおきたいなと思っています。


