本当にちゃんと書ける人の単価は、これから上がると思っています。稼働時間あたりで見たときには、という条件つきですが。原稿料が下がり続けたという話ばかり聞くなかで、逆のことを言っている自覚はあります。
先に自分の偏りを書いておきます。自分はテキストで情報を取るほうが圧倒的に速いです。脳の回路の作りなのか吸収の仕方なのか、理由はうまく説明できませんが、ビジネス系のYouTubeはほとんど見ませんし、新書を1冊読むほうが早い。ただ、これはあくまで個人の話です。動画で情報を取る人はどんどん増えていますし、視覚から入るほうが吸収しやすいのは間違いないと思います。どちらが良い悪いではなく、人それぞれの最適化の問題です。
実際、自分もエンタメになると逆になります。純文学を読むより映画を見るほうが好きです。わざわざ脳内で再生するより、映像として目から入ってくるほうが楽なので。だから「テキストのほうが上等だ」という話をしたいわけではありません。
そのうえで、テキストの消費量は全体として減っていきます。これは止まらないと思っています。活字を読まない層がいるという話は80年代くらいからずっと言われてきましたし、いまさら反転する材料もない。
ただ、ここで「だからテキストは届かなくなった」と結論を出すと、実態を読み違えると思っています。届く力そのものは、まだ残っているからです。
分かりやすいのが純文学の世界です。又吉直樹さんの『火花』は累計300万部を超えていますし、村田沙耶香さんの『コンビニ人間』も国内だけで200万部規模に届いています。純文学はもう読まれない、という言い方が正しいなら、この数字は出ないはずです。
消えたのは、届く力の最大値ではありません。平時の届き方のほうです。
文芸誌の部数を見ると、それがはっきり出ます。『文學界』は1960年代から1980年前くらいまで月3万部弱で推移していたのが、いまは1万部くらいだと編集長が語っています。当時の人口で割ると10万人あたり28部だったものが、人口が増えたぶんも含めて考えると、桁がひとつ違う水準まで落ちている。新潮も群像もすばるも、いまはだいたい1万部前後です。毎月文芸誌を買って、新しい書き手や同時代の作品に触れる、という習慣を持つ人がそれだけ薄くなったということだと思います。
本を読む人自体も減っています。文化庁の調査だと、月に1冊以上本を読む人は2008年度で5割強、2023年度には4割を切りました。
ただ、この調査にはもうひとつ数字があります。本を読まないと答えた人のうち、7割以上は、SNSやネット記事といった本以外の文字情報をほぼ毎日読んでいる。つまり、文字を読まなくなったわけではないんですよね。長い本というパッケージが選ばれなくなっただけで、文字そのものは相変わらず読まれている。
そう考えると、この30年で本当に消えたのは、テキストの価値ではないと思っています。消えたのは、テキストを日常的に届けるための回路のほうです。
かつては、文芸誌に載ったものが新聞連載になり、総合誌に取り上げられ、文庫や全集に入り、賞を取って映画になる、という常設のルートがありました。書き手は自分で経路を用意しなくても、書けば流れていった。いまはその常設ルートが弱っていて、代わりに芥川賞やSNSでの話題化といった「事件」が起きたときだけ大きく跳ねる形になっています。定常的に流れるのではなく、イベントで跳ねる。
原稿料の話も、たぶん同じ構造です。ライターの単価が下がり続けたのは、書く力が安く見積もられたからというより、届け方が一種類しかなかったことの帰結だと思っています。紙の広告が縮み、Webに移ってページビューで換金する形になり、さらに動画へ予算が動いた。その連鎖の末端でテキストの制作費が削られた。書き手は、たまたまその経路の出口に立っていただけです。
そして厄介なことに、この経路には非対称があります。発注する側に対して一度下げた単価は、まず上がりません。市場が戻っても、前の水準には戻らない。
だから単価を考えるときに最初に見るべきなのは、書く力よりも、どの経路で届けているかのほうだと思っています。媒体からの発注なのか、自分で有料の記事を売っているのか、ニュースレターを直接読者に送っているのか、企業から直接受けているのか。同じ人が同じ質のものを書いても、経路が違えば手取りは何倍も変わります。発注経由なら値段は相手が決めますが、直接なら自分で決められる。
そのうえで、減ったあとに誰が残るのかも考えておきたいところです。テキストが減っていく世界で最後まで残るのは、文字を脳内で再生できる人たちだと思っています。読んだものを頭の中で像に変えられる人。この人たちにとっては、動画より文字のほうが速いので、量が減っても読むのをやめません。母数は小さくなるのに、一人あたりの読み込み方はむしろ深くなる。
そうなると、対価の決まり方も変わります。何人に届いたかで払われていたものが、届いた人がどれだけ動いたかで払われるようになる。読者が5万人から5千人に減っても、その5千人が本当に読んで何かを変えるなら、払う側から見た価値は下がっていません。むしろ計算しやすくなっている。
なので「上がる」と言っても、無条件ではありません。条件は2つあると思っています。その内容に需要があること。そして、読んだ人の態度が実際に動くこと。この2つが揃わないなら、経路を整えても単価は上がりません。読まれても何も起きないテキストは、人数が多かった時代のほうがまだ換金できました。数で誤魔化せたので。
興味本位や覗き見で消費される種類のテキストが、これから伸びるかというと、たぶん伸びない。あれは母数が大きいことで成立していた商売なので。
そしてもうひとつ、あまり楽しくない話もあります。残った濃い読者は、書き手全員で奪い合うことになります。母数が減るとはそういうことです。可処分時間が限られているなかで、誰の文章を読むかを選ばれる側に回る。
ただ、その競争は「たくさん書いた人が勝つ」形にはならない気がしています。読む側が少数精鋭になっているぶん、選ぶ基準の精度も上がっている。量で押しても、選ばれる理由にはならない。
コンテンツが溢れていて、動画も音声もあるなかで、自分は何を選んでアウトプットするのか。趣味なら何でもいいと思いますが、ビジネスとしてやる以上は、稼働時間あたりのリターンを見ないわけにいきません。
だから、原稿料が下がったという話を聞いたときに、まず疑うのは書き手の力ではなく回路のほうです。純文学が届かなくなったのではなく常設ルートが消えたのと、たぶん同じことが起きている。回路が合っていないだけなら、まだ打てる手はあります。

